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九谷焼について

ここでは、約350年続く九谷焼の歴史と、代表的な図柄を簡単にご説明いたします。

【古九谷】

古九谷

九谷焼は明暦元年頃(1655年頃)石川県山中町九谷の地で良質の陶土が発見されたのを機に、大聖寺藩初代藩主前田利治が家臣・後藤才次郎に命じて、肥前有田郷で製陶の技術を修行させ、技術を導入したのが始まりと言われています。この時期に製陶されたものを「古九谷(こくたに)」と呼んでいます。 古九谷は17世紀以降、日本で作られた色絵磁器の中でも品位風格があり豪放華麗な作風として、有田の柿右衛門、古伊万里、色鍋島や京都の仁清などと共に高く評価されています。 また、この時代は世に言う「百万石美術工芸の華」が咲き誇った時代で、その中心地・金沢には加賀藩前田家の文化政策と豊かな財力で全国から著名な職人、画家、学者、茶人たちが招かれ、多くの優れた美術工芸品が制作されました。九谷焼は、その中でも最も代表的な工芸品だったのです。 こうして華やかな展開を見せた古九谷も、元禄(1700年)の前半頃、約50年で廃絶したとされていますが、その原因に関して詳しく語る文献は一切残っておらず、現在もさだかではありません。

【再興九谷】

木米 吉田屋 飯田屋 永楽

古九谷が廃窯となって110余年後、九谷焼は加賀藩によって再興することになります。文化年間(1800年頃)、産業奨励・失業者救済の目的で加賀藩は京都の文人画家青木木米(あおき・もくべい)を招き、金沢市春日山に築窯させます。これを契機に若杉窯・小野窯・吉田屋窯・永楽窯など、新しい窯が次々に興り九谷焼は再興されました。これらの窯では日常品なども作られるようになり、九谷焼は産業的な発展をなすこととなります。また、各々の窯が特徴ある画風を有し、九谷焼の持つ多彩な美の源流となりました。

【産業九谷】

庄三 青粒

幕末から明治初期にかけて活躍した名工・九谷庄三(くだに・しょうざ)(1816年-1883年)。彼はこの頃輸入された洋絵の具をいちはやく取り入れて中間色を出すことに成功し、多彩な色を駆使した彩色金欄手という絵付を確立しています。この画風は産業九谷の主流となり、全国に普及していきます。明治政府によって殖産興業・輸出振興策が推進されていた当時、国内外で開催される博覧会に大量に出品されたものの多くが、この庄三風といわれる作品でした。それらの作品は欧米人の趣向と一致して好評を博し、九谷焼は「ジャパン・クタニ」の名で一躍世界的に知られるようになります。この時代、九谷焼業界が輸出に力を入れていたことは、九谷焼が輸出陶磁器の第1位になったことや、九谷焼生産額の80%が輸出品であったこと(明治20年代)などが物語っています。九谷焼が産業的に確立したのもこの時代です。

【現代の九谷】

彩釉 釉裏金彩

古九谷の始まりから約350年を経た現在もなお、その伝統美は受け継がれ続けています。 ここでは、現在九谷焼で人間国宝(重要無形文化財)に指定されている2作家の商品も販売いたしております。

柳雨軒三代・徳田八十吉(彩釉磁器)
錦山窯三代・吉田美統(釉裏金彩)

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